独自の視点でモノやコトに新たな価値を見出し、それをエンタメとして昇華させるみうらじゅんさん。最新エッセイ『アウト老のすすめ』では、老いに伴うさまざまな「諦め」を逆手に取り、「老いは新たな冒険の始まり」として、人生を楽しむ考え方がユーモアあふれるエピソードを通して描かれています。そんなみうらさんに、これまでの住まい選びのこだわりや、愛する街の魅力についてお話を伺いました。どんな街で、どんな理由で住まいを選んできたのか、そのエピソードからも、みうらさんの独特な視点が垣間見えます。
プロフィール
みうらじゅん
1958年京都市生まれ。イラストレーターなど。
―みうらさんは18歳で上京されてからもう東京の暮らしのほうが長いと思うのですが、住まいのエリアにこだわりはありましたか?
上京して最初に住んだのは遠縁の親戚の家だったんですよ。その老夫婦のところに居候させてもらっていました。その次は西荻窪のアパートで、次は美大近くの国分寺、そして卒業後は東高円寺といった具合でいろんな住まいを転々としてきました。その後も引っ越しはしましたが、僕は住まいのエリアに関していえば「中央線沿い」っていう一本の筋を未だに通しています(笑)。
―そうなんですね。みうらさんのこれまでの記事にも、高円寺はよく登場しますよね。この街を選ばれた理由はありますか?
1970年から80年代初頭の高円寺といえば、フォークやロック好きの憧れの地だったんです。吉田拓郎さんはモロ『高円寺』っていうタイトルの歌を出しておられたし、友部正人さんの『一本道』っていう曲には「今 阿佐ヶ谷の駅に立ち」っていう歌詞があって、上京前の僕からしたら新宿と銀座以外で知っている東京の地名といえば、高円寺と阿佐ヶ谷だけでした(笑)。当然、いつかはそこに住まなくちゃと思っていたんですよね。

大学を卒業した年に、友達と二人で東高円寺のアパートに住んでいたんですが、後に分かったことは、その近くに拓郎さんの住んでおられたマンションがあったんですよ。そのマンションの階段の手すりに拓郎さんがもたれかかって座っている写真が『人間なんて』(1971年発売)っていうアルバムのジャケットに使われています。聖地巡礼として実際に足を運んだことで、その写真が実は逆版(左右反転)だっていうことに気づいて感動しましたね。なんで逆版で写真を使ったんだろう?って思ったけど、ピン!ときたんです。拓郎さんの憧れの人であったボブ・ディランさんのファーストアルバムも、実は逆版なんですよ。だからそのオマージュなのか、いや、デザイナーの意図があってのことか……っていうのは未だ不明なんですけれどね(笑)
―自分だけが知っているネタのような感じがして嬉しいですね。
やはり、それは行ってみないとわからないですからね。実は先週も美大の最寄駅であるJR国分寺駅を巡礼したんですけど、僕は卒業してからもう何回もね。それって、年を取ってから始めるものだろうけど、もう待てずに20代半ばから(笑)。昔住んでいたアパートとか、今はすっかりないですけど、早くから巡礼してますから、アパートが潰れて更地になっていく様も全部写真に収めてます。西荻窪に住んでいた時のアパートはなぜだかコンクリートの壁だけが残ってるんですよ。両隣にはもう新しい住宅が建っているけど、その事実を知っているのは僕だけじゃないでしょうか?
―みうらさんがゆかりの深い高円寺とか荻窪の辺りって、いろんな文化が生まれた場所でもありますよね。

高円寺って、今でこそオシャレな古着屋さんの街っていう印象ですけれど、僕が住んでいた頃は、極普通の商店街でしたからね。
僕らの上の世代の人たちはね、「インドに行けば人生が変わる」という伝説のような話をよくしてました。フツーの商店街でしたが、高円寺にはインドの商品を売る店が駅前にありましたので、僕は「日本のインド」とネーミングしたんです。長く伸びるパル商店街はシルクロード、駅前にあった噴水をガンジス川に見立てて(笑)。そんな所以もあって、もう10年以上続いている『高円寺フェス』では、毎年一度、ゲストを呼んでトークショーをやっているんです。
―なるほど〜。そう考えると、街に集まる人たちによってその街の特色が生まれるというか、文化が育まれていくって感じますね。
しかし一時期、高円寺で育みすぎてたんでしょうね。糸井重里さんからある日「とりあえず一度、高円寺から出ろ」とね(笑)。「そこにずっと篭っていてはいけない」っていう“グル”の教えだったんです。早速、仕事場だけは表参道に構えました。それでだいぶ仕事の幅が変わりましたね。ちなみに僕は、部屋の間取りとか中はどうでもいいんです。どちらかというと「エントランス主義」。
―「エントランス主義」(笑)。また面白い表現ですね。家選びも、事務所選びも外観が決め手で選ばれている感じですか? 好きなエントランスがあるとか……。
そのエントランスの佇まいが、後の自分にどう影響するか。時々によって価値観が変わっていくように、自分のいる立場も変わっていくんじゃないだろうか、と考えるようになりました。しかも高円寺のアパートは友人と住んでいたんで、編集者との打ち合わせとか原稿の受け渡しをする時は、駅前の喫茶店「トリアノン」でしたから(笑)。

原宿に仕事場を持ったのも、糸井さんの影響です。その時期、原宿のセントラルアパートに糸井さんの事務所があったもんで。編集者から「仕事場に原稿を取りに行きますよ」って言われるようになった時は嬉しかった。やっぱり「エントランス」の力は絶大です(笑)。それで原稿料も少し上がったのではないかと思いますよ。
―ゆえの「エントランス主義」なんですね(笑)
僕は高校生の頃から、無頼派作家にすごい憧れがあったので、そんな人が綺麗な机で健康的に原稿を書き上げているより、どんな場所でも書いているというのがいいな、と思い込んでいたんですけど、やっぱりエントランス主義も仕事をつづけていく上には、とても重要だと思います。

―確かに今の事務所も立派なエントランスでした(笑)。今のご時世だと「終活」時期はどちらかというと、物を手放していこうという流れになっていますけれど、それについてはどう感じていらっしゃいますか?

本当にその物が好きだったら手放すなんてことはしたくないじゃないですか。当然「終活」なんて言葉は僕の辞書にはありません(笑)。捨てちゃうと物は集まらないっていう根本的なこと。だから僕の場合“終”じゃなく“集”。集活をkeep on。いや、今ではloop onですね。

―マイブームの境地に辿り着いたわけですね。『アウト老のすすめ』を出版され、今の時点で、みうらさんが考える理想はありますか?
アウト老には、世間一般の理想があってはいけません。だって、はみ出し老人にならなきゃいけないわけですから。『アウト老』の経典には、「過去は終わったこと、未来はわからない」って書いてあるんですよ(笑)。だからこそワクワクするんじゃないかな。理想を持っていると、そうならなかったらがっかりすることも多いです。でも「未来はわからない」ぐらいに考えておけば、その時々で面白楽しいことを見つけて、生きていけるんじゃないかなって思ってるんですけどね。

